昭和52年08月14日 朝の御理解
御神誡 一、「信心する人の真の信心なきこと。」
真の信心を目指します。ですから真のおかげが受けられるという道理です。ですから真の信心を目指さなければ人間の幸福は有り得ません。昨夜遅くでした。昨日は十三日会の後に、記念祭の何か委員会が遅くまであっとりました。文男さんが来とりましたから、どうせ足揉みに来てくれるだろうかと思うてから、寝らずに待っとりました。ですから十二時頃までテレビを見せて頂きよりましたが、遅うに仏教哲学ですね、所謂インド哲学という大変、何か大学の教授の方のお話があっとりました。
興味をもって聞かせて頂いとりましたけど、とてもとても難しい難しい。仏教もこう言う所を極めて行かにゃんから矢張り難しいんだなと、私は思ったんですけど。成程哲学ですからやっぱり難しいです。お釈迦様は哲学の人だと、キリストは奇跡の人だと、言うふうに言われてますよね。ですからそういう例えば同じ、例えばなら合楽では、合楽だよりが出ましてから奇跡シリ-ズというのが出まして、まあ奇跡的な、おかげを受けた方の事が、ちょうど一年間続きました。
成程誰に聞いても奇跡ですからね。けれども教祖様はそこの所をはっきりと、「信心しておかげを受けるのは不思議とはいうまじきものぞ」と仰っとるです。信心して霊験の無い時は、これぞ不思議なる事ぞと。初めて合楽の信心が本当の信心になって来たなと、ちょうど今度の合楽便りの記事をどう言うふうにさせて頂こうかという前後の時に、この御理解を頂きました。合楽では、これからは奇跡という言葉は使わない。
奇跡というものはない。それはどんなに死人が生き返るような、チンバが立ち盲人が眼が開く様なおかげを頂いても、それは奇跡じゃない。もう当たり前なんだというのが最近いわれる。ですから奇跡シリ-ズと言った様なものは過去の信心だと。合楽の場合ではこの辺のところがある意味では素晴らしいと思うですね。断食もする、水行もすると。本当に熱心なこっじゃあるといって、みんながある意味で、それこそ無期限の断食なんかに入ると、もう皆が大変、合楽で英雄視したもんですよね。
はぁあっちは十五日間も、それもお許しを頂くまでは頂かんと言った様な決死的な修行ですね、言うならば。神様からお許し頂かんなら何時までんせにゃんと、言った様な修行に皆で平気で取り組んだですよね。だからその時分はその時分として素晴らしいけど、今では絶対そういう修行をするなら、もう合楽の信心じゃない。もし弟子の中にそういうことをする者があるなら破門と言う様なね。この頃もいろんな悩みやら苦しみがあったから、お滝を頂きに行ったという。
私には直接言いません。けれどもそんな事をもし続けるなら、私は破門すると私は言いました。苦しければ苦しいで、何故神様に向かわないか。何故心行を徹底して心行しないかと。と言う様にです。そしてそれを本当だということになっとります。その本当の証拠に言うならば、私が表行から心行へ切り替えて、もう途端にここのお広前の御ひれいが変わってまいっとります。信者が増えてまいっとります。
そりゃもう表行をせんからお広前が生き生きしたものがなくなるだろうと、そんな事は決してないと言う事。だから表行をするなら、もうすでに真の信心じゃないと言う事になるのです。金光教の信心はね。同時にキリスト教と仏教のなら、昨夜私が聞かせて頂いた仏教哲学なんかと言う様な、話を聞けばもう益々頭がこんがらがってしもうて、私共のごと頭の悪かっじゃ聞き取りも出来ないように難しい。
それもテレビですから、大衆にも分かる様に説明しておられるのですけど、私共じゃ分からない。と言う様なもし信心があったり。ただ奇跡だけを売りものにする様な信心があったとするならば、もうそれは真の信心から外れた事になるのです。「信心する人の真の信心なきこと」。世界中に沢山の宗教があります、信心をしておりますけども、教祖様の仰る様な所からはみ出しておるならば、もうそれだけで真の信心ではないと言う事ですから、真のおかげは受けられないです。
奇跡的なおかげは頂いても、真のおかげというものはそんなもんじゃない。天地日月の心になること肝要だと、成り行きを愈々大事に尊ばせて頂くんだと、それをそのままが神様の心を心とする事であるし。又成り行きを大事にするとか、御の字を付けるとかということは、そのまま神様の働きと分かったから、御の字を付けるのだからね。これが言うならば真の信心だと言うふうに私が申しております様に、その信心が徹底して出来る所に、真のおかげが必ず頂かれるのです。
真の信心真の信心と言って、いかにも自分が真の信心をしている様にあっても、真のおかげが伴わないとするならば、あなたの真の信心はおかしいぞということになるのです。信心する人の真の信心なき事。どこまでも真の信心は、人間がするものなんです。だから、人間の持つ欲望とでも申しましょうか。その欲望なら欲望に応えられる、信心じゃなからなければ真の信心じゃないです。
酒は呑んじゃならん、女は寄せ付けちゃならん、ともしそういう厳しい戒律がある宗教があるとするなら、もうそれだけでも真の信心じゃないと言う事が分かります。皆さん今合楽で言われとる所の合楽理念というのは、もう本当に成程合楽理念をもってすれば、言うならどんなおかげでも頂けん事はない。それこそ輝かしいまでのおかげになって来る。お百姓も合楽理念をもってする以外ない。
お商売も合楽理念をもってする以外ない。日常生活そのものが、合楽理念をもっての生活でなからなければ、本当の信心じゃあないということになる。昨日ビリグイとサンパウロから、丁度十三日会が始まろうとする時に手紙が参りました。でそれを読ませて頂いたんですけども。末永先生の所から来とるのが、皆ロ-マ字ばっかりで書いてある。だから私が読みきらん。
だから高橋さんに読んで貰うたんですけども。あちらの青年層達が思い立って、合楽理念のブラジル語翻訳を始めましたということが書いてあった。まあ本当にすさまじい働きだと思いますね。あちらに学生会が出来、若い青年の人達が出来。いろんな宗教に言わば凝って、愈々その宗教に行詰った人やら、または○○教の教師を十年間もした人やら、合楽理念を聞いてびっくり、もうびっくり仰天です。こういう素晴らしいもう人間が探しておったもの、求めておったものがそこに端的に言うなら説明がしてある。
しかもそのおかげがです。私を見て下さいと言う様にね、末永先生がもう合楽理念をもってする以外はないという信念を、自分がおかげを受けて人に聞かせとるから、もう合点がいく訳です。○○教ではこう言うおかげを受けられんでしょうが。○○の教えではこう言うおかげにはならんでしょうが。けど合楽理念をもってするとこう言うおかげも受けられますよ、是が本当に人間がする宗教ですよと言う事をです。分かる訳ですそういう人達が集まって、言わば合楽理念のブラジル語に翻訳をすると言うのです。
丁度サンパウロの高橋という先生。もう五・六十年も以上でしょうけれども、まだ布教所ですが。そこの御信者さんが大変丁重な手紙を、もう本当にこの度こちらに末永先生が見えられてから大変なおかげを頂いておると。もう本当に金光教の他の宗教は色々入って来るけれども、どうして金光教だけはそんなに発展せんだろうか、どうして金光教は本部がこちらに教会を創らんだろうかと思っていまして。
あちらへ行って十七年になります。もう十七年振りに初めて、金光教の話を聞き金光教の信心、こちらへ居られた時から信心をなさっておられた方らしいです。今度二十一日が末永先生に来て頂いて、ご大祭を仕えて貰います。その御ひれいを、合楽の御ひれいを頂いて、良いご大祭が出来るようにという、熱烈なご信心を頂いておられる方でしょう。そういう手紙が参っとります。だから合楽理念を以ってすれば、そういうまあだようやく三ヶ月間。どうしてそういう働きになって来るかと言う事をです。
思ってこれはそれは如何に真の信心だから、真のおかげが表れるのですよという、それは不思議な事でも奇跡な事でもない。もう当然の事なんだと言うのです。その合楽理念の中に成程人間のする、人間がする信心だなと言う事がです。例えば全ての事に御の字を付けて、今までこんな事は罪になるだんせんだろうかとか、こんな事は信心しよってこんな事してよかじゃろうかと、例えば思う様な事であってもです。それが我情であったり我欲であったりしてはいかん。
けれども少うしぐらいの我ならば、お礼を申し上げる気になると却っておかげ。先日の御理解の中に、ニンニクとしょうがの使った料理の話を頂いとりました。しょうがというのは人間のもつ我です。小さい我です。例えば商売なら商売をするから、やっぱり小さい我は出ますよ。けどもそれが支那料理にニンニクが使ってあったり、例えばしょうがを少し使ってあって却って良い味が出て来る様な頂き方を、合楽理念は説くのです。だからどこまでも人間がする修行。
欲をしてはならない、欲は断ってしまわなければならない、と言う様なもんじゃないです。我情我欲を取るのだとこう言うのです。欲そのものは、それは人間生きておる印だから有り難いと、お礼申さなければならないと言う事なんです。ただ我欲であって、又は我情であってはならない。けれどもそこは人間生身を持っておる事じゃから、少しほんなら、ああ今日のは、ああ我情じゃったな我欲じゃったなあと言う様な時にはです。もうお詫びもするけれどもです。
むしろそれを生かして使う生き方を合楽理念は説くのです。立教神伝に御座いますですね。「天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし物言われ相談もなり。子ども連れてぼとぼと農業しおってくれ」とか、「あの時死んだと思うて」、言うならば死んだと思ってと言う様な言葉を神様は使っておられます。死ねと仰るのじゃないです。死んだと思ってと言っておられます。後家になれと仰っておられんのです。後家になったと思ってと仰っとられるのです。
その次が良いじゃないですか。話も出来相談もなりと仰っとられる。その証拠にはほんならこの立教神伝をお受けになられてからこちらにもお子さんが出来とられます。だからもう、夫婦のことでも、それで断ってしまわれたということでは決してないのです。金光様のご信心は。もの言われ、相談もなりと仰せられております。死んだと思うて、後家になったと思うてであります。
いわゆる金光教の明教たるゆえんはこの辺にあると思うです。信心する人の真の信心なき事と、世界に沢山の宗教があるけれども、この教祖様の御神戒の「信心する人の真の信心なきこと」と言う事を、今日皆さんに聞いて頂いた事で尺をあてると、皆はみ出してしまうです。してみると世の中には真の信心はない。人間のする信心言わば人間を、言うなら人間を超えた人のする信心ならいざ知らずね。
昨日十三日会に引き続いて、委員会の人達が話をなさいます。丁度夕食を一緒に致しました。十何人か居られました。それで秋永先生が、今日は御神酒はもう三人に一本にしといて下さい。所が呑まんもんっばっかりなんです。呑むとは戎さんと、宮崎さんと、久富先生と私位のもんです。他の皆は呑まん。だから三人に一本と言ってもやっぱり、晩酌程度位には頂ける訳です。けど秋永先生あんたがそんな事言ってはいかんと私が言った。酒呑まん者が言うとね、如何にも呑む者の口を絞るごとあると。
そりゃもう酒呑む者が気色が悪か。だから私がねそりゃねそりゃほんな事ですばい。昨日、一昨日は丁度秋永先生が来とりましたので、私と久富先生と三人で食事を頂きました。私の方では、呑んでん呑まんでん必ず一本出す事にしとるですから、三本出て来る訳です。久富先生がニコ-ッと笑いなさるですもんね。あれがこちらへ来ると思うちゃるけんね。ですからあの笑顔を見たら出さずにおられんち私が。だからまあ一本つけんの一本つけんのと言う事でしたけどね。
だから問題はね、呑む者が自覚しなければいけないと言う事なんです。 私共が晩酌致します。久富先生と二人。けれども月次祭と言う時には、先生が御神酒をこれまでということ決めてある。だからそれ以上つけません。だから私が月次祭じゃけんで今日はちいっとばかし始末しとかんのち、言うたらいかんでしょう。それでは相手もきつかですやっぱり。言われてしたんでは。修行でもそうです言われてしたんではいけん。惟は言うならお酒を呑むならお酒を呑む者が自覚をすると言う事。
自覚に立つと言う事。なら惟は甘い物が好きな者もあります。色々な言うならば過ぎる。自分は一丁是は過ぎとると、是は一丁改らにゃというものがありますよね。今日は私は、この御神戒の真の信心と言う事の、今日は新しい見解でこの真の信心が説かれている訳です。ですから教祖様の仰る真の信心というのは、勿論真のおかげが受けられると言う事ですけども」、あの他の宗教は皆是からはみ出る事になるです。今日私はご神前で蛤がね、こうベロッと身を出しとるところを頂いたです。
いかにもデレーッとしたごたるけれども、ちょっと誰かが触ったらピシ-ッとこう締まる所を頂きました。死んどるなら出たぎりでしょう。生きておる。いや生きておる印なんだよと。如何にもでれっとする事もありますわい。けれどもそれは生きとる印としてお礼を申し上げなければならない事なんだと言う事なんです。かといってデレーッとがでれり続きではいけないと言う事なんです。何かという時にはピシッと締まる。そこに信心があるのだと。いわゆる自覚に立たなければいけないと言う事なのです。
呑み放題の事ではでけん。もう一本もう一本とデレーッとなっちゃつまらん。自分で一本なら一本、二本なら二本と決めとったらです。ピシットそれで止められる信心。しかも、後には何かがあるという時には久富先生じゃないけれども、いや今日はこれで頂きませんと言う様にです。私は真の信心にはそれが必要ですし、また合楽理念はそこを実に分かりよく説いとります。成程人間がする信心だと。
そして成程名教だなあ、成程金光様の信心は素晴らしいなあ、いやその中でも合楽理念は愈々素晴らしいと言う事が分かる訳です。だから一つも難しいと言う事はない。けれども、なら神様に向かうからにはです、やっぱり一生懸命命をかける。というほどしのものですから、それもなら教祖様が、天地の神様から受けておられるようにです。あん時死んだと思うて一生懸命になってくれという意味なんです。家内も後家になったと思うてくれと仰っておられる。
もうお前の主人は神が使うから、もうお前のそばには寄ってんでけんぞと言う事ではない訳。相談もなり物言われ相談もなりと言っておられる。もう本当に私はお道の信心の名教だと言う所は、こんな所だと言うふうに思います。だから人間である以上本当に真の信心を頂こうという気になったら、だから誰でも出来る。それもどこから手掛りを持っていって良いやら分からなかったのが、過去の金光教であったと思うのです。だから様々な火の行水の行をしたりね。
言うならば真の信心しさえすれば、真の信心さえすればと言うて、なら真のおかげも何も頂いていない人達がたくさんあると言う様にです。合楽で合楽理念を言うならば覚えて、合楽理念を生活の上に表していくならば、真のおかげが受けられる。それは真の信心だからだと言う事です。神様の御働きをそのまま、神様の働きをがっしょうして受けていこうというのが、言うならば天地日月の心なのですから。少うし言うならばその気になったら誰でも出来る事。
昨日十三日会に司会が、昨日は今度学院から帰って来とる人達ばかりを選って、指名して発表させておりましたから、まあ学院での有り難い事、学院での悩みなんかをそれぞれに発表いたしとりましたから、結局学院から帰って来とる修行生の方達が、まあ矢面に立った訳です。だから私があの修行生の方たちに申します事ですけどね。例えば五時なら五時の御祈念。昼なら昼の一時からの御祈念にです。
例えばなら人間ですから、今申します様に朝の御祈念にと思いよるけど、ならやっぱり寝忘れとったと言う事もあるから、そげん時はまあお詫びさせて貰わねばいけんけれども、一生懸命になりゃ出来ん事もない。けれども一時の御祈念位は、これこそ言うならばキチッと出て来れん筈はなか。ですから本当に私は合楽の信心はね、この一時の御祈念の五分前に出て来るか、五分後に出て来るかで合楽の信心は決まるよと私は言ってるんです。五分後に出て来るともうそれは合楽の信心じゃないです。
合楽理念を持ってすると言う事は、厳しい事あるけど実は難しい事ではないでしょうが。なにか用件があったというなら是はまた別です。合楽の者はあちらの先生達のお話を聴かんというのが、一人一人それを言われる様です。けど先生達が話しとられるのを聴いて、そげな事じゃなか合楽ではこげん言ってと。ほんな事を知っとるもんですから、その上の空の事して聴く訳ですね。先生そげんじゃなかですよと心の中で言いよる。だからまあその言うなら眠気も付く訳です。
確かに成程合楽で頂いとる事が本当です。だからその本当な事が身に付いて、ならまだよいけれども、知っておるけど本当な事が身に付かんなりに、今言うように、一時の御祈念なら一時の御祈念に五分も十分も遅れて来るごたる。言うなら学業の本部で、人から遅れてどん出て来る様な事でですよ、合楽の信心はこんな素晴らしいと言う様な事はでけん。学院生の人が二、三人発表致しておりましたら、中から頂いた事は「地の信心をもって示す」と言う事を頂いたです。
地の信心というのは、皆さん何時も頂いとるように、もう言う事はいらん。自分がもう、黙って受けて受けて受け抜いて、言うなら成り行きを大事にさせて頂いて、受け抜いていくと言う様な信心で示していけとこう言うのです。だからなら合楽の修行生が、さあ学業という時には一番前に出て来る。そしてノ-トを持って来て、鉛筆を持って来て先生の話を一言も聴き漏らすまいとして、そういう姿勢をとる。人よりか五分早う出て来る。頭は悪かばってんする事はキチッとする。
というふうに表れて来るなら、悪く言われる筈がないです。後の奉からどん聴きよる。後から時間遅れてどんやって来る。さあ勉強だというのに、ノ-トっも持って出てこんと言った様な事ではです。例えば、私はこの事を昨日も話した事でしたけれども、さあお話でも頂こうか、信心の研修でもするという時にです。例えば筆記道具一つ持って来んということでどうして出来るかと、私は申しましたです。
例えばなら書く事はなかってもです。それを見ただけで先生が、あの修行生はねっしんな、私の信心をあげん熱心に聴いてくれよると思うから、そげな悪い見方をせんじゃろうと私は思います。今度学院生が帰るときは、この事をもういっぺん言うとこうと思う。いろんなさあ勉強というときは、人を押し分けて出て来る事はいらんから一番前にずらっと並べと、合楽の者は。
そして必ず筆記道具を持っていってから、もうなにか書いてん書かんでんよいから書きよるふうだけでんせろ。さあ先生が、はぁあれがえらい熱心にこの頃なったち思われると、二学期から皆の先生が見直してくれるだろうと私が言うのです。やっぱりあそこは要領がいるとこなんです。今言うように、合楽で教えられる事とは違うんです。そう言う所に非常に悩みがあるらしいのです。そしてなら結論すると合楽で言われとる事が本当だ。合楽での事はおかげが伴うとこう言うのです。
真の信心です。信心する人の真の信心なき事。何かこう、聖人君子のようになからなければ真の信心ではないと言う事は絶対ない訳です。どんなに人から信用を受けておっても、あの人は人間が間違いないと言っても、たとえば今日皆さんに聞いて頂いた事から外れておるなら、その人は真の人じゃないです。だから真の人というのは、もう普通一般の人ね。そういう人が合楽理念を持って生活しようと言う様な姿勢をとった時に、私は真の人だということが言えるのだと思うです。
いや真の人として神様が認めて下さるから真のおかげが受けられると思うのです。例えばなら私くらいな人間、私くらいなだらしない男でもです。神様が合楽理念を血に肉にして、何十年間過ごさせて頂いたおかげです。神様が真の人と認めて下さっとるおかげで、真のおかげが現れとる訳です。だから私の様なだらしのない男でも、と言う所にです、私は金光教の信心の救いがあると思うです。金光様の信心すりゃ、もうそれこそ聖人君子の人でなければでけん、そげんならりゃならんと言う事は決してないです。
たまにはでれっとしてもいい。けれどもさあ事という時にはピシッと出来るだけの、言うなら信心姿勢を作れというのです。一時の御祈念にね、五分遅れて出て来る、五分早く出て来る、いっちょん難しい事じゃないでしょうが心掛けるなら。今日そういう信心を今日は違った言うなら角度から、この真の信心というのを聞いて頂きました。同時に今日は天地書附を引用した所を皆さん、もう一遍考えて見て下さい。金光教の信心とはこういう信心なのだと言う事です。
どうぞ。